日々、子育てをしていて、ふと自分の過去のことを振りかえると・・
「ああ・・俺もこういう多動で注意力もなくて集中できない子だったんだろうな・・」
とそう思う。
そう自分の過去を振り返らせてくれたのも、わが子のおかげでもある。
うちの3歳女児はとにかく、もー、落ち着きがないったらありゃしない。
ひとところに留まる事を知らず、ちょっと自分にとって不都合があると「びえー」っとなり、すぐに「あっちいって!」とか「生まれてこなければよかった」などを連発する。挙句の果てには止めようとする手にかみついてくる。
食事もままならず未だに1時間はかかる。食べさせてあげようかとすると怒ってテーブルから離れる。さらには0歳次女にもちょっかいを出し始める・・。
「●●だから、こうしようね」とゆったりと説明をしてあげても受け入れられない。
というかまともに聴こうとしない。ママもパパもぐったりする日々。
色々な子育てサイトにでているような、「論理的にやれば理解する」とかいう情報はガセネタじゃないのか?と思うくらいでもあった。
ケアしている親の立場からすると、「最初は、なんなんだよ・・、ありえん」
と思う事が多かった。
「何故親身に世話をしてあげているのにここまで言われなきゃならないんだ!」
と思う事も多かった。
私も一時期、ADHDという診断を受けた事がある。
だからなんとなくわかるのか、多動な子は自分の感情をうまくコントロールできない。
私の経験上、子供側はそのようなときに自分がどう振舞うべきなのかわからない。
だからおかしな行動をとったり態度で示したり、変な言葉をだしたりする・・。
というのが根底にあったような気がする。
親側からすると
「なんでそうなるの?」とか
「なんでそういうことするの?」とか
「なんで泣いてばかりいるの?」などなど・・
色々と思うところがあるのかもしれない。
でも、親が「何がどうしてあげれば良いか?」という答えには中々結びつかないケースが多い。なぜなら、親にも(個人的な)ゆとりがなくその事に向かい合ってあげられないというのがあるからじゃないだろうか?
※一昔前は、ADHDであろうとも、適当にほったらかされて、なるようになるわぁという育てられ方が多かった気がする。私はその育てられ方だった(3男だったし)。ADHDだったのだろうが、好きなことを勝手にせい!が今の俺を作り出したのかもしれない(良い事?悪い事?)
どのような状況が疾患を助長しているのかな・・と思う所もある。
そもそも子供にそういう傾向があるのかというのを見極める事も重要となる。
私は本当に自分の子が発達的に偏りがあるのかどうかを知りたかった。
人によっては、そんなの調べずに子供の感性を信じろよ!と言われるかもしれないが、
私はその状況を知っておいて、良い環境を作っておいてあげたいと思う方だった。
そこで、実際に子供を児童精神医がいる専門施設に出向き、心理士さんの発達検査を受けさせてみた所・・、意外な結果が分かった。
試験の結果「言語力」と「記憶力」がずば抜けている一方、「空間認知」や「手先の器用さ」など知覚などが通常の人より少し下回っていたという結果になっていた。
また、1つの質問をしたら「聞いていない事まで矢継ぎ早に次々と話す」ようでもあった。つまり、自分の中でも、何をどう表現したらよいのかが分からないという典型例だ。(一方で、様々な発想を言葉にして出す言語力はすさまじい所があるけど)
つまり、ある方向に能力が髙ければ、ちょっとまだ未成熟な能力との差が激しくなり、その「差」が情動の不安定性を生み、その子を苦しめることになっていたとも思う。
実際保育園での素行を保育士さんに聞いてみたら・・。
「友達にうるさいと言われることもしばしば」
「友達が理解できない言葉を話しており、困惑されている」
といったケースもあった様だ・・。
保育園に行きたくないということもあったが、こういう事もあったのか・・
と親側も自覚する事になった。
ある程度成長して、自分の身の回りのことや、世の理などを認知する「器」がしっかりしてくれば、この「差」を補い社会生活も苦労しなくなるだろう。そのための環境整備をしっかりしてあげられれば良いのではないかという方針となった。
何が言いたいかっていうと、一つ一つの能力の差異で苦しんでいる子供は、自分が今感じているこの「感覚の差」すらうまく親に伝えることが出来ないという事。だから親としては非常に苦労させられるし、この子は大丈夫なのだろうか心配してしまったりする。
実は、今よく言われている「大人のADHD」というのもそれに近いのかもしれない。
大人のADHDも同じようなもので、「生きづらさ」を感じているのは、何かしら自分の中での能力の差異が原因になっているケースがあるのかもしれない。
幼い時から大人になるまでの、この「感覚の差」が解消されないまま大人になってしまう・・。また、それを受け止めてくれる環境ではなかった・・
その事から「不自由な特性」をそのまま、大人の社会生活に活かそうとすると・・ひずみが出てくる。そりゃ、生きにくくなるよなぁ・・と。
いくつか具体例を考えてみると・・
①本当は「自分のことを表現したい人間」なのに、「自分の表現を限定している職」についてしまっている・・とか
②自分のペースで創造的にやっていきたいのに、それを実現できない地位にいる
③一つのことに没頭し過ぎるあまり、マルチタスクが向かず会社に合わない・・とか
やはり、自分自身無理をしてしまっているがために、情動が不安定になることも有るだろう。結果、「うつ」となってしまうのだろうけれど・・。
ただ、
これは本当に病気なのだろうか?(診断違い?)
それとも個性が今の生活に合っていないからなのだろうか?
私にとってはここが一番の関心どころとなっている。
有名なものとして、「ADHDの父」と呼ばれたドイツのレオン・アイゼンバーグ氏(2009年10月没)はお亡くなりになる前「ADHDは作られた病気の典型的な例」であると述べられている。
このADHDという診断名が出てきて問題視されるようになってきてから、ADHD治療薬が製薬会社から作られるようになった。
実際の先天的な精神症状をもつ患者さんの治療だけにとどまらず、過剰診断と薬の販促目的のためにADHD患者の数が急増しているのではないかという問題提起もされたくらいである。
当時はADHDの診断基準が不確実だからこそ、断定できないからADHD薬を使う・・とか、過剰に薬を使って利益を得ようとしている人もいたのかもしれない。
ただ、ADHDという疾患があるのは間違いはなく、その疾患に悩んでいる患者もいる。
まずは、この多動や情動の不安定は本当にADHDなのか?
それとも「器」ができるまでの不安定さなのか・・
これが自身の「器」がしっかりとでき、家庭環境がこのADHDを「個性」として考えてあげられるかどうか?
この点は、各々の家庭と近医の専門医(できれば児童精神医)で相談するのが一番かと思う。うちも児童精神医と相談し、どーみてもADHDっぽいが薬での治療はやめて別のプログラムで経過観察をしてくれたりもした。まずは自分の子の特性を理解してあげることが非常に重要と考える。
むしろ重要なのが家庭環境。この子たちのベースの不安定さを許容して、それを「個性」としてみてあげられるかどうか?
このアプローチができるようになれば・・将来の天才像に近づくのかもしれない。
結論として、
「敵を知り、己を知れば100戦、危うからず」という中国の孔子の教えの通り、
子供の適性を知る事は、今後の100戦(子供をどう育てていくか?)を考えていく上でも重要になってくる。
まずは、子供の特性を理解するためにも、多動や情動不安で悩んでいる方は児童精神医に相談して、今後のプランニングを考えていく事だろう。
財政面でファイナンシャルプランナーに相談するのと同じで、子供の辛さを適当な理解で済ませてダラダラ遷延化させるよりも、家庭面で児童精神医に相談する事はなんの後ろめたさもない。
的確な家庭環境や対応方法についてアドバイスをしてくれる児童精神医を見つけられれば、子供との接し方もだいぶ変わってくるだろう。(実際ウチもそうだしね)